自由とは何かという話になると、とかく哲学的な話に陥りがちです。
哲学的な話は自己完結型の思考に陥ることが多く、他者からの影響という概念が抜け落ちたり軽視されることがよくあります。
例えばなぜ人を殺してはいけないのかという問いに、他者目線という概念が欠落した場合、うまく説明できなくなります。
ですから哲学ではその問いの答えが出なくなるわけです。
実際はその答えは簡単で、相互契約だからです。
他者という概念が必要な物事から、わざと他者という概念を消して考える思考は、基本的なレトリックの嫌がらせです。
哲学的な思考のほとんどに、このテクニックが使われています。
また、哲学はダブルミーニングを利用した言葉遊びに終始することが多く、曖昧な言語の意味をわざとさらに広げて、答えを曖昧にする複雑化を行っています。
哲学自体が、真実から人々を遠ざけるための言葉遊びによる複雑化の嫌がらせと言えます。
自由を阻害するものはほとんどが他人であり、他者からの影響といった物理的な要素がほとんどです。
それを心の問題にすり替えるのはミスリードです。
心を増大させるものは他者からの影響であり、また萎縮させるのも他者からの影響です。
また、人生のほとんどは他者の影響による反応であり、自発的なものはほとんどありませんし、あったとしてもそれは組み合わせによるものです。
心理的に行動の自由を阻害するテクニックはたくさんあります。
物理的に行動の自由を阻害するテクニックもたくさんあります。
思考を阻害するテクニックもたくさんあります。
監視は、行動や振る舞いを心理的に阻害します。
騒音は、思考や平穏な心の流れを妨害します。また、身体的なダメージを伴うこともあります。
接近、威嚇、存在のアピールなどで、進路を妨害したり、心理的に退かすことが可能です。
それらはわざとらしく実行することも、さりげなく実行することも、意識では理解できない本能的な刺激を与えることで実行することもできます。
また、他人を自由にする権利を与えないことによって、自由を阻害することもできます。
自分の状態を自由に操作されることで侵害される自由もあります。
自由とは何かを考えるということは、哲学的に自由そのものの意味を考えることではなく、自由を阻害するものとは何かを考えなければなりません。
何も影響がない状態で自由を考えると、別の自由の意味を発生させてしまいます。
自由な状況で自由とは何かを考えれば哲学になってしまいます。
おかしなこじつけの答えばかりが出てきます。
不自由な状況で自由を考えなければ、自由を捉えることは出来ません。
つまり自由とは何かを捉えるということは、不幸な状態から普通の状態に回復させる行為であり、何もないところから、素晴らしい価値観を生み出すことではありません。
マスコミの刷り込みや歌の歌詞などは、ほとんどが自由は素晴らしいものというミスリードを行っています。
それは正しいのですが、自由を阻害するものが何かということを隠しています。
自由とは何かを考えなくてもいい状態に持っていくことで、初めて解放されたと言えます。
マイナスからゼロに向かう自由と、ゼロからプラスに向かう自由は違うということです。
マイナスからゼロに向かう自由は開放であり、ゼロからプラスに向かう自由は欲望です。
これらは言葉のあやが発生しやすく、状況によってそれぞれが混同されやすいものです。
本来ならば、それぞれに対応した言葉を作らなければなりませんが、国や世界は、意図的にそれらを一つの言葉としてまとめてしまっています。
これもダブルミーニングです。
ダブルミーニングは、ひとつの言葉に複数の意味を持たせることで、その本質を攪乱することもテクニックの一つです。
平等の意味も同じで、マイナスからゼロに向かう平等と、ゼロからプラスに向かう平等は違います。
この辺りが言葉やダブルミーニングの本質のようです。
言葉には周知レベルというものが存在し、一部の人だけが知っている言葉と、ほとんどの人が理解している言葉では、社会や人間に対する影響力が変わります。
正確に自由の意味を表す言葉や、様々な意味を表す言葉があったとしても、それが周知されていなければないことと同じです。
一部の人だけが知っている言葉の影響力は少なく、わざとそういったコントロールをして、一般の人々に周知せずにモラルをコントロールするテクニックがあります。
また、使う人によって言葉の意味が変わったり、暗喩の意味があったりと、ダブルミーニングもほとんどの言葉に存在します。
そうやって意思の疎通を阻害して、正常化を阻んでいます。
自由を阻害する犯人を非難しなければなりませんが、厄介なのは、その自由を侵害している犯人が偶然を装ったり、あるいは姿を見せない場合もあるということです。
こうなると、自由はそれが侵害されていると主張している人個人に対して担保されなければなりませんから、事態が複雑になります。
自由という思想は大切ですが、現実に自由があるとは限りません。
まだ誰も、自由意思を証明できていないのです。
世の中には複雑な状況に追い込まれている人がたくさんいるのだということを認めなければ、話は先に進みません。
なぜ世の中の議論のほとんどが平行線をたどるのか、そのことに疑問を持たなければなりません。
我々は世の中に自由など一片もないことを知っていますが、それに気づくためには、最初に世の中がおかしいことを認めなければなりません。
説明できない事柄が世の中に存在することは不自然なことです。
特に人間がやっていることを人間自身が分からないのは普通だという態度を続けている限り、闇の人間の思いのままになってしまいます。
人間がやっていることなのに分からない部分が存在するということは、間違いなく闇の人間がいるということです。
自由を阻害しているのはその闇の人間なのかもしれませんし、その闇の人間さえも自由がないのかもしれません。
この記事へのコメント
私は無知なので話が深すぎて理解できませんでした。否定ではありません。
集団ストーカーが存在するのはわかります。自由とはなんでしょうね?
コメントを書かせて頂いて中、防犯カメラもあります。他のお客さんもいます。けど、私は自由な時間を過ごしていると感じています。
店内では、他人や宗教団体の批判はしていませんし、普通に携帯を眺めています。
ただ、お客さんや店員の中に熱狂的なカルト信者いたら厄介なので、普通に携帯を眺めています。
これは自由ではないのでしょうか?申し訳ありません、当たり前の事を言いました。
関係ない話ですが、このブログを見る前にWikipediaで北九州の監禁事件も見ていました。
酷い事件ですし、悪党は必ず居る残念な事件です。
集団ストーカーの被害者の皆さんや集団ストーカー宗教信者が沢山いるのに、北九州監禁事件が見つけられないのが疑問です。
北九州事件も詐欺と洗脳事件です。
職場でも似たような内容が毎日行われていますよね?
新人は焦らせ仕事を押し付けて先輩はサボる。徐々に妬みが生まれ抗争が起きる。
当たり前の事を当たり前に行動するだけなのに、なぜ人間は歪んでしまうんでしょうね?
申し訳ありません。ワケがわからん独り言を書いてしまいました。
MAGIC ULTRA
自由な人の場合、あまり集団ストーカーに深入りしない方がいいのかもしれません。
巻き込んでしまうことは本意ではありません。
しかし、最終的にはどちらでも同じことですから、自由が無くなったとしても、悲観する必要はないでしょう。
自由があるかないかという話は、世界の枠組みの外側の話になりますので、少しややこしいかもしれません。
人間の成り立ちを外側から考えるというのはタブーのようです。
歪みを生み出す存在を、集団ストーカーと呼んでいます。
それは警察や人間の怠慢、政治のおかしさ、人間の振る舞いのおかしさから発生します。
当たり前に動かない人がいる。理解できないほどの無意味な悪をなす人がいる。
それらは集団ストーカーに操作されているという考え方です。
集団ストーカーの正体は、神様みたいなものと考えていただくと分かりやすいかもしれません。
ただ、我々は宗教を信じているのではなく、科学的にその作用を受けているということです。
科学的に神様の操作のような力を感じている。
それによって自由がないという結論に至ったという考えです。
もちろん集団ストーカーは神様ではなく、悪意を持った驚異のテクノロジーを持つ存在です。
集団ストーカーを正確に理解してしまうと、かえって危険なのかもしれません。
MAGIC ULTRA
哲学にはそれが洗脳的に働く危険性と、それがヒントとなり、自由への足がかりになるかもしれない有用性の2面がありますね。
自由意志と集団ストーカーには関係があると考えています。
おそらくほとんどの被害者がそれを痛感しているでしょう。
かなり情報をお持ちの方のようです。
今後ともよろしくお願いいたします。
私もなるべく広い範囲で書き続けてみます。