悪人が存在する限り、必ず被害者が存在します。
社会は被害者を救済する存在という考えが、どうやら間違っているようです。
社会の中で、被害者と悪人、どちらの味方につくかというと、どちらでもない、状況によるという人が大多数になります。
被害者につくという人と、悪人につくという人の数は正確に計れませんが、その勢力の強さは、やや悪人の方が強いようです。
消極的な多数の被害者の味方と、積極的な少数の悪の味方という対比になります。
動機としては、悪の存在の方が、被害者の存在よりも面白い、得をする、利益になるというのが、悪人に味方するものの心理であり、本音です。
被害者の味方にならない理由としては、なんとなくイライラするというもののようです。
そのイライラの正体は、よくよく話を聞いてみると、ほとんど理不尽で身勝手な思い込みや先入観による感覚です。
悪の味方をする人間の特徴は、精神、思考、人間性など極めて倫理的に未熟です。
物事を広い範囲ではなく狭い範囲で考えたり、いろいろな可能性を考えることなく、思い込みや決めつけで考えていることが多いようです。
犯罪の被害者のほとんどは、社会が被害者よりも加害者の味方をしていると感じることがあります。
それは実際に、大手の経済組織、警察、国家などでもそのように振る舞います。
まず交通事故の被害者がどれだけ車の危険性を訴えても、自動車に乗る人間の方の都合に、世の中や法律は合わされます。経済的にその方が利益がありますし、車が売れなくなるような方向へは動くわけにはいきません。
例え理不尽な交通事故が相次いでも、自動車関連会社で働く人々の雇用の方が、政治家が守るべき優先課題となります。それは数の論理でもあります。
決して被害者を無視しているわけではありません。
切り捨てるべき人間をわきまえているといった方が、彼らの心理を正確に表しているでしょう。
被害者には、スケープゴートという役割があります。
学校で起きているいじめなどは、まさにスケープゴートです。
子供たちの興味を、特定のマイノリティーをいたぶることに向けさせる。
そのマイノリティーは、何の落ち度もない人間を強制的にマイノリティーに仕立て上げることもできます。
いじめられる方にも問題があるという論理が通用しないのは、この強制的なマイノリティーの創出といったテクニックが実際に存在するからです。
それは圧力や脅迫によって、どのようにでも作り出すことが可能です。
政治は弱者を守るような法律をなぜ整備しないのか。
結局のところ、ある種の権力者は、世の中を彩りたいのです。
悪人がいた方が緊張感があって面白い。
悪人がいた方が、人々の行動や心理を制御しやすい。
悪人がいた方が、その対策のための負担が増えて経済効果も上がる。
被害者がいた方が勉強になる。
平穏な人々に何も気づかせずに働き続けるように促すには、不幸な被害者を見せつけるという脅迫が効果的である。
何もない平穏な世の中ではつまらない。
支配者の論理は全体主義的であり、人間が個人であるということを隠しています。
全体主義の中に生まれる少数の被害者の心、被害者にならなくても、それは間接的に脅迫されているのです。
論理的、倫理的には、悪は許されないことです。
しかし、世の中は被害者の心情を無視するという、無情な方向に動きます。
論理に反しますし、倫理にも当然反します。
犯罪被害、交通事故、福島原発事故、沖縄米軍基地の問題、すべての被害者に対する無情な発言が大勢を占める不自然な世の中。
メリットとデメリットで物事を測るなら、マフィアを撲滅した国々、原発を廃止した国々、犯罪被害者に手厚く犯罪者に厳しい国々の存在を、どのように説明するのか。
国によっては、当たり前のようにそのモラルを達成しているのに、一部の国ではモラルに反する国家に恭順する意志が当たり前だと主張されている。
構図としてそれを説明します。
まず悪人を作り出そうとする強力な闇の力が少数の悪人を作り出します。
政治家はその悪人の存在を自然に生まれたものであり、本来は優しい人間であると言い、事実上何もしません。悪を為すことが出来なくなるような法律を頑なに拒否、そのような質問ははぐらかしたりして答えません。
マスコミは悪人は人間性に溢れていて、感情豊かな人間であり、幼少期にめぐまれなかったことから悪人になったと説明します。アウトロー文化は格好のいい憧れるべき存在であることを吹き込み、被害者が生まれるというデメリットには一切触れなかったり、被害者とアウトローの存在を切り離して説明します。
一般の人々は、被害者になるのは自己責任、それなりの理由があるから被害者になったという奇妙な論理を展開します。何を言っても他人事の発言を繰り返し、的外れな中傷を繰り返します。
社会の理念としては10人中10人が被害者の味方になるはずですが、現実にはそのようなまともな正義を持った人々は意外に少なく、10人中被害者の味方が皆無になることも珍しくありません。それどころか10人中5人以上、悪人の味方の振る舞いや言動をすることも珍しくありません。
最近のインターネットの論調を見ていると、あおり運転のニュースのコメントで、あおられる方にも問題があるといった議論を捻じ曲げる発言が9割でした。
被害者が救われないのは、人々の論理が間違っているからです。
政治も倫理も、もっともらしいことを言っているようで、その本質は間違っています。
その間違いの正体は何なのか。
それは社会が定義している論理の間違いです。
マスコミがそれとなく誘導している答えが間違いなのです。
はっきりとしない政治家の態度にも問題があります。
それでも人々は自らの過ちを決して認めないでしょう。
すべての人々が少しずつコントロールされているようです。
それが1パーセントのコントロールなのか100パーセントのコントロールなのかは分かりませんが、何のための国家なのか、何のための人生なのかを考えれば、世の中が大きく間違っていることは理解できるでしょう。
人生の勝者になりたいのなら、世の中に上手く取り入る能力を身につけ、他人を平気で利用する性格が必要になるかもしれません。
もちろん悪人が勝者になれるわけではありません。
悪人はただ、他人の幸せの権利を無残に奪うだけです。
被害者が救われないのは、世の中のほとんどの人々、特に権力者や警察が、本気で被害者を救おうとは思っていないからです。
この記事へのコメント
じゅん
皮肉を言います。
被害者がすくわれるのは、足、だけ。
(足をすくわれる、のギャグ)
MAGIC ULTRA
>
コメントありがとうございます。
人間は考える葦であるとも言われますが、はたして。
hoonohonopy@yahoo
「おれは山下清じゃねえ。小市民と思ってなめてんのか。ケーサツ呼べ。友達に頼まれただけだ。」
と暴れて引きずられながらアピタ店内からのカメラに映っている様子です。最近知ったので、どなたか放送を見た方はいませんか。
MAGIC ULTRA
>
コメントありがとうございます。
MAGIC ULTRA
被害者同士の被害がどのようにシンクロするのか、とても興味のあるところです。
最終的には個人的な被害に収束するようですが、テロなどの大きなニュースに関係する被害者同士は、同じニュースで被害がシンクロします。
それは、個人を超える被害と言えます。
被害というものは、それぞれの認識が主体となり意味を持ちますから、認識というものは重要です。
互いの被害がそれぞれほのめかしになるという情報もあり、被害者の認識の差異は、その被害の意味を割り出すための極めて重要な情報になります。
悪の定義はいろいろあると思いますが、まるで善のような悪により救われる場合もあると思います。
MAGIC ULTRA
人によって善悪の定義がずれることによって衝突が起きますが、この定義をずらす謎の力と、誰もが嫌がる絶対的な悪の定義を曖昧にしようとする謎の力があるようです。