情というシステム

悪とは何か。
悪人はなぜ存在するのか。

悪人学という学問はなぜか存在しません。

それが解明されれば、悪人がいなくなってしまうからです。

現在でも、悪人が存在するのは大きな疑問です。
私の感覚では、とても悪人が存在できるような世の中ではないと感じます。

私がほんのわずかにミスをしただけでも、またほんの少しモラルに落ち度がある行動を取っただけでも、周囲の人々が鬼の首を取ったかのように私を責め立てます。

わずかであっても悪を働けるような環境ではありません。

悪を働くためには、他人に注意されないだけのある種の強さが必要になります。

私の周囲には本当の悪人というのはいませんでしたが、悪による被害は常に、直接的、間接的に受けてきました。


悪人は生まれた時から悪人であるわけではない。それはその通りです。
それともう一つ、悪人は常に悪人であるわけでもありません。
常に悪人だと、周囲の人が被害を受けてしまいますから、誰も近づかなくなり、悪人は生活できなくなります。

それでも悪人が存在するのはなぜか。
それが情というシステムです。

まず、人間には情けという文化があります。

すべての人々に生きる権利があるという倫理も教えられています。
悪というのは生きることを困難にする存在ですから、この倫理は矛盾するのですが、人々はこの矛盾の答えは出さないようにしています。

悪人はこの情というシステムを使い、人間の感情をうまくコントロールして生きています。

つまり、悪人は人の情けに取り入ることが得意な人々と言えます。

悪人は決して感情がないわけでも人の気持ちが分からないわけでもありません。
もちろんそういった感情のない悪人もいるでしょうが、それはごく一部の特殊な悪人です。

ほとんどの悪人は、人の感情を理解して利用し、特定の人間、自分に敵対する人間に対して牙を剥きます。
悪人は、悪というアイデンティティーは自分特有のものであり、自分には悪を為す特権があるという思考回路を持っています。
他の人は悪を為さないのではなく、悪を為す力も能力もないのだと考えるのです。

そして正義をかざす人間は悪を為す度胸や特権がない人々であり、悪の特権を邪魔をする存在で、憎むべき存在であると考えるようになります。

邪魔な存在である正義と敵対することで、正義を嫌うようになって悪が加速されます。
これで本物の悪人が誕生します。

悪人は人間の心を失っているわけではなく、悪という特権を持っていると考えている人々です。
悪人本人は情に訴え、悪を為すことでしか生きてゆく術がなかったのだと言い訳しますが、それならば一般の人は悪を為さなければ生きてゆけないのでしょうか。
それは特権意識があるから、そのような言い訳になるのです。

よく、悪人になるのは子供の頃の不幸な環境が原因と言われますが、不幸な環境の人間のほとんどはむしろ弱者となり、悪を為せない状況に追い込まれることがほとんどです。
それらは情というシステムに甘えることを覚えた人間の言い訳です。

そして警察に捕まると、情に訴えて、自己の振る舞いを正当化します。
ですから警察に捕まったくらいで改心するはずがありません。
改心したふりをするだけで、反省する素振りすら見せないこともあります。

悪の行動であっても、それが感情的なものであるならば、それは人間的なものであり、許される可能性が高いことを悪人は知っています。
ですから悪人はとにかく大げさに怒ったり、感情的に振る舞うのです。

警察がこの点を指摘しないことは不自然です。
指摘する警察官は少数であり、ほとんどの警察官はそれどころか、感情的なものに寛容になることによって悪はコントロールできるという間違った感覚を持っています。

つまり、悪人の感情を認めることによって、人間的な感情を失わずにとどまるだろうと考えているのです。
これは甘すぎる感覚です。
悪人はそれを知って、わざと感情的に振る舞っているわけですから。

人間は感情的な存在であり、感情的な人間は人間として素晴らしい人間であるという描写は、物語やドラマなどで常に語られてきましたが、間違ったものです。

情けは素晴らしいものですが、悪人に対する情けは別です。
被害者の感情を無視するシステムは、ドラマ的な洗脳から来るものでしょう。
悪人は、弱者に対する情けを、悪に対する情けにも適用するように人々に働きかけます。

加害者の感情よりも先に、被害者の感情を考えなければならないのですが、死人に口なしの感覚が、一般の人間だけでなく警察にさえあります。

死者の無念さを重要視する正義の人々と、人間の感情的なドラマに酔う人々との対立と言えます。
被害者は彼らの人生を彩る道具でしかない。

任侠という落ち度のある美学を正当化する人々がいます。
江戸時代であればそれは美学として成り立ったかもしれませんが、近代では片手落ちもいいところの独りよがりの美学です。
悪人以外の、すべての人を助けることが出来る美学でなければなりません。

日本ではこのようなシステムで悪が正当化されたり、問題に上がらないように悪が隠されたりしていますが、海外ではおそらくまた別のシステムで悪の存在を可能にしているかもしれません。

一般の人にとって悪は人生を彩るものでしかないかもしれませんが、被害者は実際に存在します。

インターネットの時代、悪が存在できるのは不自然だと声を上げる人々がたくさん出てきました。
裁判所や警察による被害者の人権の軽視に、多くの人が疑問を持っています。
今まで謎だった悪人という存在は、さり気なく解き明かされて消えてゆくのでしょうか。

悪は無知や道理の無視からも始まりますから、無限の種類がありますが、それらはほとんど解き明かされることがなく、理解できないという言葉で隠されます。

悪人の人生では不思議と言い訳が通りますが、真面目な人間ほど言い訳が通らないような気がします。

少なくとも感情で悪を正当化してはなりません。

消えていった被害者の感情を無視する論理がまかり通るのはなぜか。

実際は世の中のほとんどの人々が悪人による被害者の側に近いにも関わらず、悪と面と向かって戦わないのはなぜなのか。

人々は口々に、悪が怖かったと言い訳をします。

怖いからこそ、その脅迫を受けないように戦うべきなのに、怖いから戦わないというのは言い訳にはなりません。

悪というのは恐怖で人の心をコントロールしようとします。
それは警察も使っているテクニックです。

それを見抜き、そのテクニックを分析して対処できるようにならなくてはなりません。

ほとんどの人々はその暇がないためにそれができません。
また、そのような知識もありませんし、信じません。

そのようにマスコミの情報によってコントロールされています。
マスコミによって、悪の一般化なども行われています。
一部の人間は悪にシンパシーを感じるように洗脳されます。

そのようなテクニックによって、すべての人々が心理的にコントロールされ、互いに相手の自由を奪ったり、監視せざるを得ない状況を作り出され、自由が大きく奪われているのだということに気づくべきでしょう。

世の中は、メリットにデメリットを混ぜ込むという嫌がらせに溢れています。

情というシステムなど、メリットにデメリットを混ぜ込むというテクニックに騙されてはいけません。

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