人生の物語性

集団ストーカーの被害者に限らず、一般の人の人生にも物語性があります。

しかし冷静に考えれば、人生に物語性は必要ないはずです。
物語は物語的ですから、自然ではありません。

人間が筋書きを書くということは、他人をコントロールしようとすることです。
大抵それは、幸せのサプライズなど、お祝いの時にのみ物語を作りますが、日常から物語にまみれているというのは不自然です。

物語性がない場合、どうしても倫理観などの刷り込みができずに動物的になってしまいます。

物語性は、人間をコントロールする上で、流れるように刷り込みを行うことが出来る極めて優れた洗脳システムです。
つまり、子育てでの思い出、学校での思い出、仕事での思い出、人生での思い出、すべて社会的に作られたシステマチックなものです。

物語性は、人間が他人の真似をしながら成長してゆく特性を利用しています。よって、物語もみんな似ることになります。
思い出のほとんどは、社会の枠組みの中に押し込められて、無理やり社会によって詰め込まれたものです。
その中の勝ち負けを意識する人間の中から、善悪の特性が生まれることになります。

物語性には社会からの圧力があり、物語に参加しないということはほとんどできません。

大衆的には、物語からの脱却を図るのは危険なことになります。
しかし個人的には、くだらない物語を押し付けられているのであれば、物語から脱却した方がましな場合もあります。
よく個性的な人、俗世間から距離を置いて生活する人がいますが、それも社会が用意した物語の枠組みの範疇です。

日常生活だけでなく、生きてゆくための仕事も同じです。

最初からすべてを教え、完全な状態から仕事をスタートすれば何の問題も発生せずに簡単なのですが、人は成長をわざわざ演出しながら、失敗を物語にして仕事を進めていきます。
最初から世の中のすべてを教えるということは誰もしません。
効率的ではありません。
本来は仕事に失敗は必要ありません。
人間の物語を構築するために、あえて仕事に物語性を持たせていると考えられます。

仕事は社会がうまくまわればそれで良いのです。
わざわざ営業戦などで会社同士つぶしあう必要はありません。
競わせることで成長が加速するという理論もあるようですが、競い方が効率的ではありません。ただのつぶしあいになることがほとんどです。

物語が人を洗脳し、効率という真実を隠してしまいます。

生きることは働くことではなく、物語を体験することである。

もし、そうだとするならば、この世の中は何なのでしょうか。

集団ストーカーの被害者の場合は、この物語に納得がいきません。
強制的に敗北のシナリオを与えられているからです。

ある程度人生が幸せな人であれば、人生の物語性など考えることもないでしょう。
それで幸せなのですから、物語は歓迎であり、それに疑問を呈する方がどうかしている。
世の中はコントロールなどされていないし、物語は自然に構築されたものであると主張するでしょう。


集団ストーカーの被害者が見ている物語は、実にくだらない茶番です。
集団ストーカーとの戦いも、それぞれストーリーが違うだけの茶番です。

どんなに努力したとしても、すべてコントロールされた、なんら結果は変わることのない茶番です。

一般の人々はドラマに近いハッピーエンドの物語ですから、世の中の物語性をほとんど否定することはありませんが、我々は、世の中の道理そのものを否定しようとしています。

被害者の場合は、人生と引き換えに超常現象のようなものを体験し、世の中の真実に近いものを見ることが出来るという等価交換なのでしょうか。

しかし幸せな人生を手に入れている被害者もいるわけですから、やはり我々は物語の内に埋没するわけにはいきません。

人生は暇つぶしと言いますが、我々が見ているものはそれとは大分違うものです。
過ぎれば終わり、終わらなければ終わらない。その板挟みです。

一般の人の場合、おそらく物語に埋没していなければ、生きていくことが困難な世界のはずです。
それが物語であると指摘してしまえば興醒めしてしまう。

幸せのほとんどが物語で出来ているとするならば、物語は正義なのでしょう。

だとすれば、その正義を享受できる人はごくわずかです。このような正義は正義とは認められません。

正義には、個人の中の正義と、すべての人が共存するための正義があります。
この違いはわきまえていなければなりません。

不幸な物語を体験する人がいなければ、幸せな物語の価値が分かりません。

これは巨大な差別システムです。

考えてみれば、人間は知性があるのですから、物語の外に簡単に出れるはずです。いつでも物語をやめて、自然な生活を実行することもできるはずです。
幸せを作り出すための物語、その洗脳。これが人間をコントロールする技術です。

しかし物語のある生活に慣れてしまった人々は、物語のない味気ない日々には耐えられないでしょう。
こうして偽物の毎日が続いていきます。

物語を脱却したとき、我々は本当の世界のおかしさを知ることになります。
知識人たちが効率の悪いことをするはずがないのです。
知識人や政治家がまともに動けば、誰もが納得することを繰り返し、あっという間に世界を最適化してしまうでしょう。
悪や不幸な人は最小限になり、平和で退屈で楽しい毎日がやってくるでしょう。

もう一度、おかしいのはどちらなのか、我々は問います。

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