リアリティとは何か

私達は基本的に現実を疑うことはしません。
それは現実を否定するということは、この世界を否定することであり、私達自身の否定にも繋がるからです。

現実を否定するということは、現実にある社会を否定することにもなりますから、社会的にも好ましくないことです。
現実の否定を恐れる人々は、現実を否定する人々を精神病と見立てなければ論理を保つことができなくなります。

これはすべての人々に共通する感情です。

現実は本当に現実なのか、それは思考の中では成り立っても、自分の目や肌で感じている世界を否定することは、深層の心理的特性によって阻まれます。
誰もが自分の感覚は信じるしかないようにできています。

その感覚や確信がどこから生まれているのかというと、それはリアリティという感覚です。

現実感、現実性、現実、安定的な仮想、そのいずれもリアリティを与えます。

例えば、目を覚まさない時点では、夢でさえも強い現実感を保つことがあります。それは目を覚ました瞬間に現実感を失います。

この現実感という感覚は操作できるのではないか、と私は考えています。

明らかに操作されたような意味の濃い夢を見る人々がいます。
また、急激に現実感を失い、幻覚に陥る人々がいます。

現実感を保ったまま、現実感が強くなったり薄くなったりする状態を感じることもあります。これは現実感という感覚がひとつではない可能性を感じるものです。


ハイウェイヒプノーシスでは、一人の人間の中に複数の意識が同時に存在し、ある瞬間にその意識のどれかを選択し、それ以外の意識が意識内の現実感を消し去り、ほとんどの意識の記憶を消し去ります。

このことから、夢の中の現実感、妄想の中の現実感、意識の中の現実感という感覚も存在することが分かります。

それでは現実の中の現実感をも操作できるのでしょうか。

人間は、嘘っぽいものには現実感を感じず、例えそれが現実であったとしても意識的に現実感を低下させます。
現実感は対象によって細かく、個別に変化するものです。
それは思想的なものにまで及びます。

自分が経験したことのあるものには強い現実感を感じ、自分が経験したことのないものには現実感を感じずに拒否反応さえ出ます。


リアリティというものは、ある程度は経験則によるものであり、その現象の瞬間に感じるリアリティと記憶の中のリアリティとが食い違った場合、人は記憶の中のリアリティを優先する特性があるのではないか。


人間の感覚器官から得る情報は化学的な反応であり、疑いようのない現実に思えますが、それを判断する最後の器官は脳であり意識になります。

色彩と脳の不思議という記事で、脳内の映像は決して現実をそのまま投影したものではないことを説明しましたし、それは錯覚という現象からも分かりますが、脳内に投影される映像は、脳内で再処理された映像であり、視覚器官から入力された信号そのものとは少なくない差異があります。

リアリティという感覚はすべての要素に紐付けられ、感覚だけではなく思想としても植え付けられます。
それらの細かい思考内リアリティまでが、事細かに操作されているのではないか、と私は考えています。

そのリアリティという感覚は、信じるか信じないかを判断する無意識の力となり、圧力ともなります。


自分が生きるために必要なものはリアリティが高くなりますが、自分に必要のない概念のリアリティは低くなります。


集団ストーカーの攻撃自体は様々な種類がありますが、それが解決しない最終的な原因は、全体的なリアリティの欠落であり、それはなぜなのかと考えた場合、それはリアリティをすべての人々が操作をされているからという答えになります。

真実など存在しないという答えが当てはまる状態があります。

集団ストーカー最大の攻撃とも言える現実操作です。

現実が操作されてしまうわけですから、もはや答えを変えることも自在であり、その体験をしている人間も存在します。

現実操作と現実感操作は違い、現実操作は現実そのものを書き換えるものであり、現実感操作は人々を心理的に操作する印象操作に近いもので、機械的に心理的な現実感を脳内送信で操作することができるのでしょう。

ここで考えなければならないことは、自分が信じているものやその信念、その経験、そしてそのリアリティの感覚さえも操作可能であるなら、現実の認識は人によって変わるということです。

例えば、目の前の食料などは究極のリアリティでしょうし、病院などもリアリティの強いものです。人の経験によっては学校や会社がリアリティの高いものと感じますし、政治家や国家などは揺るぎないリアリティを保証するものであると感じる人もいるでしょう。

マスコミやインターネットの情報などは最近は不安定なリアリティという印象も強くなってきましたが、そのあたりにもリアリティの操作がうかがえます。
かつてはマスコミは究極のリアリティに近いものでした。

青い空にリアリティを確信する人もいれば、生い茂る雑草にリアリティを感じる人もいるでしょう。

しかし世の中には、それらのほとんどにリアリティを失う操作をされた人々が存在します。
人間は操作される、気象も操作される、宇宙さえも本物なのか疑う。

確かなものなど何一つ存在しない世界。

現実の否定は思考を停止させるものではありません。
それは存在を否定しているわけではありません。

正体が分からない現実という曖昧な認識から、現実という枠を作ることで現実を自動的に構築しようとする思考に気づくことによって、さらにはリアリティが操作されている可能性も感じることになります。

そう考えると、世の中が奇妙な論理であふれているのはリアリティが操作されているからであると、そしてそのリアリティの存在が、人々がこの世界を否定することができない心理的な力になっていることが分かり、これこそがガスライティングが打破できない理由になります。

わざわざ夢という現実ではない世界を人間が見る理由は、この世界にリアリティを与えるためでしょう。
リアリティがないものを見せることによって、この世界が相対的に現実のように感じるように操作されます。

この世界が現実であるなら、わざわざリアリティという感覚を持つようになったのは何故なのか。
それは脳の誤謬の補正機能でもありますが、わざわざ脳が現実ではない錯覚を見せるのは単に機能を強化、補正するためなのか。その機能強化はどのような経緯で生み出されたものなのか。

リアリティや現実というものに疑問を持つことによって、世の中の矛盾が存在し続けることが奇妙であることに、そしてこの世界はあまりに奇妙であるその理由を見ることになるかもしれません。

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