常識という名の洗脳

本来、常識という言葉は、知っていて当然の知識、知っているべき知識という意味で使われます。
ところが、この常識の誰でも知っているというマジョリティー性と、知っているべきという強制性が、悪意のある常識の場合は危険をはらむことになります。
知っているべきという強制性がある時点で、洗脳に近い要素があります。

言葉は他人に意味を伝えるものですが、複層の意味を含んでいるものがほとんどで、余分な洗脳が入ってしまいます。
また、そのように使われています。
他人との意思を共有するシステムが言語なので、言語そのものが洗脳システムとも言えます。
言語にその意味とずれた意思が加わった時点で洗脳が始まります。

すべての言葉は、使う人と使われる人などによって意味が変わることがあり、そのニュアンスのずれを利用して、結論を全く変えてしまうということも可能なようです。

そういった言葉の複層性や曖昧さを利用して、残念ながら常識という知識にさえ、深層の意味が隠されているようです。

どうやら言語というものは、本来とは違う深層の意味を含ませることにより、人々の思考をコントロールすることができるようです。
深層の意味はどこかで紛れ込み、イメージとして脳の片隅に焼き付けられています。

世の中には常識という名の洗脳があります。
モラルを利用することにより、常識に反することは嫌悪するように洗脳されています。
さらに常識という言葉のイメージも洗脳されています。
常識について、人によって変わる得体の知れないものというイメージを持っている人も多いでしょう。
それは本来の意味と違います。
それも洗脳です。

常識という言葉には複数の意味があります。

主に、守らなければならないモラルという意味と、社会人の行動規範としての基礎知識という意味、平均的で平凡な普通の考え方という意味。
常識を打ち破れとか常識に囚われてはいけないというのは3番目の意味に対して使うものであって、1番目や2番目の意味で使うと大変なことになります。
全く違う意味を1つの言葉に込めると、こういった弊害があります。
こんな馬鹿馬鹿しい言葉遊びが繰り返されています。

常識は時と場所により変わることがあるという常識。
これも言葉の曖昧さが原因です。

この言葉の意味の曖昧さを利用して、常識を常識として成り立たなくしようとする人々がいます。
個人的な常識を他人に押し付けて、常識と非常識とをごっちゃにしようとする人々が後を絶ちません。
それが常識に頼れない世の中を作り出します。
社会の破壊行動の一環です。
ローカルルールは、社会全体では大変迷惑なものになることがあります。

常識は常識とは限らない、しかしそれでも人々は常識から逃れることが出来ません。
それは常識にはモラルという意味もあるからです。
どの意味の常識なのか、しっかりと選別して守るか守らないか決めなければなりません。

よく「私は常識には縛られません」と自慢気に言っている人がいますが、普通の人がなかなか常識を破れないのは、常識にモラルという意味が含まれているため、それが洗脳となり常識を破りにくくしています。
実際普通にしていないと叩く人がいるのも事実ですが、不思議なことに特定の人は普通にしていなくても叩かれません。
そういった人が「私は常識には縛られません」と自慢気に言います。
何か世の中に仕組みがあるのでしょう。

さて、常識にはもう一つの作用があります。
社会的常識は、その権威性から絶対的真実という洗脳を生み出します。
ここから理解が難しくなります。
おそらく先程言った嫌悪感を感じ、そこから先に進みにくいという洗脳を感じ取ることができるでしょう。

常識はオカルトを否定しています。
オカルトという言葉自体に嫌悪感や嘘という意味を感じる人がほとんどでしょう。
これが常識の怖いところです。

もし、オカルトの中に真実の情報を隠された場合、人々は真実にたどり着けない状況になります。
オカルトという言葉に対する嫌悪感、その原因はずっと情報の中へ含まれ続けていたオカルトへの侮蔑があります。
オカルトの中に巧妙に真実をも否定するように仕向けられた情報が隠されていました。
逆に言えば、集団ストーカーは巧妙にオカルトを利用しています。

常識は、敵性の情報に接したとき、盲目的狂信を生むことがあります。
それだけの力を秘めています。
常識の中に危険な洗脳が入っているのでしょう。

ややこしいのは、オカルト自体はほとんど嘘だということです。
集団ストーカーは、このオカルトのような状況を意図的に作り出すことにより、多方向に複雑な洗脳を行います。

もしオカルトの中に真実が隠されてしまった場合、真実を知るためには常識が邪魔になってしまいます。
集団ストーカーについて考えるには、この本能的な嫌悪感に逆らって真実を追求していかなければなりません。
冷静に少しずつ、理性的に理論的に理解していかなければなりません。

集団ストーカーの話は地味なオカルトのようです。
派手ではなく地味なのです。
すべて現実に起きてもさほどおかしくないことばかりです。
地味ということが、世の中の表面に出てこないようにするために必要なのです。
どうやら嫌がらせというものは、派手なものよりも地味なもののほうが、効果が高いのかもしれません。

常識という言葉に囚われない強い心が必要になります。
これを克服するのは困難ですが、情報を紐解いていけば真実に近づくことが可能となります。

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック